川内歴史さんぽ

私たちが暮らしている身近な場所には、実は知らないだけでいろんな歴史が密かに眠っています。
ここでは、「歴史さんぽ」と題して、身近な地域の歴史や文化について、さまざまな視点からご紹介します。

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薩摩国分寺跡(国分寺町)

薩摩国分寺跡(国分寺町)

歴史資料館からすぐ近くにある薩摩国分寺跡は、資料館が開館した翌年の昭和60年に国指定史跡公園として開園しました。
公園は、薩摩国分寺跡の保存と活用のため、地下に残る遺構は覆い土で保存した上で、復元的に施設を整備しています。
史跡公園として、教育の場など多くの人々が利用できるよう環境にも配慮されています。

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上空から見た薩摩国分寺跡史跡公園(南側より)

国分寺とは

度重なる飢饉や疫病の流行、内政の混乱が起こり、聖武天皇は仏教による鎮護国家(災害・疫病・外敵除去、五穀豊穣)を祈り、天平13年(741)国分寺建立の詔を発布し、全国に 国分寺は設けられました。
詔には、人々の幸福を願い、諸国に国分寺を建立することへの経緯や国ごとに七重塔を造 って金光明最勝王経(※)を収めること、国分寺建立には立地の良い場所を選ぶこと、僧寺(金光 明四天王護国之寺)と尼寺(法華滅罪之寺)に分けることなどが記されています。

※ 金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう) 唐(中国)の義浄による翻訳。国分寺建立の思想的な根拠とされ、護国経典として尊重された。

薩摩国分寺 〜はじまりからおわり〜

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薩摩国分寺軒丸・軒平瓦(創建時)

薩摩国分寺(僧寺)は、川内川右岸の台地面上の南東に位置しており、標高8〜13mまでの北に高く、東と南に低い地となっています。
6町方域の国府の推定域が国分寺の西側には、隣接しています。
薩摩国分寺の建立は、全国の国分寺建立より遅れ、『続日本紀』の天平勝宝8年(756)には薩摩国分寺の記述がないものの、『弘仁式』には見える ことから、この頃には薩摩国分寺の主要建物が完成していた ものと考えられ、国分寺の瓦からみても8世紀後半か末頃と されています。

発掘調査では、建物が建て直しされ、創建期の建物跡が再 建の際に攪乱するなどはっきりとしない部分もありますが、 主体となる建物跡が確認されました。
薩摩国分寺は、10世紀頃と鎌倉時代に再建されたよう で、天正15年(1587)には豊臣秀吉の島津氏征伐の際 に国分寺は兵火に遭い、焼失したといわれます。

『三国名勝図会』によると、寛文9年(1669)になって島津光久の命で泰平寺の住持実 秀により、国分寺は再興されました。その際、国分寺は真言宗大乗院(現鹿児島市)の末寺(※)とされ、薬師如来を本尊としました。再建された場所は、創建時の地点から移動し、もとの 場所には、観音像・釈迦像と思われる2体の古仏が茅堂に安置されていたとあります。
規模が縮小しながらも再建されてきた薩摩国分寺は、慶応3年(1867)に廃寺となり、 ついに姿を消してしまいました。
尼寺の所在地については、依然として場所は特定されていませんが、これまで僧寺と同台 地上にある西原や安国寺、泰平寺、天辰廃寺などが推定されています。

※末寺(まつじ)-本山の支配下にある寺のこと。

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薩摩国分寺推定復元模型(南側より)

公園への道のり

薩摩国分寺跡については、塔跡のみが昭和19年(1944)に国の指定を受けていましたが、その全容については、はっきり分かっていませんでした。
昭和39年(1964)、川内高等学校の郷土研究クラブ(平田信芳教諭指導)による薩摩国府跡の発掘調査が発端となり、昭和43年からは県による国府・国分寺の調査が行われることになりました。
史跡公園として整備されるまでの道のりは長く、多くの先人たちの努力が実を結んで完成したことを忘れず、史跡公園を大切にしていきたいものです。

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